四九日忌
初七日忌・二七日忌・三七日忌・四七日忌・五七日忌・六七日忌・七七日忌
この時は法事しなければなりません。
人をお呼びするのは最低初七日忌・初命日忌・忌明け納骨・百ヶ日忌は呼びましょう。
中陰とか中有といいますが一週間を七回して王の裁きを受けます。
☆ 三日忌(開蓮忌)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三途の川
☆初七日忌(初願忌)・・(守り本尊)不動明王・・・(裁判王)秦広王
☆二七日忌(以芳忌)・・(守り本尊)釈迦如来・・・(裁判王)初江王
☆三七日忌(洒水忌)・・(守り本尊)文殊菩薩・・・(裁判王)宋帝王
☆四七日忌(阿况忌)・・(守り本尊)普賢菩薩・・・(裁判王)五官王
☆五七日忌(小練忌)・・(守り本尊)地蔵菩薩・・・(裁判王)閻魔王
☆六七日忌(檀弘忌)・・(守り本尊)弥勒菩薩・・・(裁判王)変成王
☆七七日忌(大練忌)・・(守り本尊)薬師如来・・・(裁判王)太山王
☆百ヶ日忌(卒哭忌)・・(守り本尊)観音菩薩・・・(裁判王)平等王
☆ 一周忌(小祥忌)・・(守り本尊)勢至菩薩・・・(裁判王)都市王
☆三回忌(大祥忌)・・(守り本尊)阿弥陀如来・・・(裁判王)五道転輪王
☆七回忌(超祥忌)・・・・・(守り本尊)阿しゅく如来・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆十三回忌(称名忌)・・・(守り本尊)大日如来・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆十七回忌(慈名忌)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆二十五回忌(大士忌)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆三十三回忌(冷照忌)・・(守り本尊)虚空蔵菩薩・・・・・・・・・・・・・・・
臨済宗葬儀法要法話実践講座より引用
一番最初の法事ではあるが、省略するときが多く、葬儀終わって引き続きするときもあるし、安国寺では葬儀の2・3日あとのお礼参りと時に、安牌諷経・開蓮忌のおつとめをして、労いのためにその家族にちょっとしたお膳を用意して出します。
初めての生法事の日です。
初七日忌を所願忌(スゲンキ) と言いますが、これから先永い永い旅にでるわけですが、ここで旅路に対しての願立てを亡者はするのです。なんとか、極楽の世界に行けるようにと願って。
最初に出てまいります不動明王は最初の入り口で亡者がくるのを待っているが、何も言わずただじっと見据えているだけ、しかしその重圧は半端なものではなく、亡者は色んなことを頭に思い描きながら入ってくる。あんなことをした。こんな事もしたと、みんなのこころの中まで見通している不動明王です。しかし何も言わず通してあげます。ここでは、書類審査のみで通過する事を許されるでしょう。
しかし裁判官の秦広王に色々と尋ねられ、頭にのぼせて、うそをついていると、五七日忌に地獄落とされてしまいます。あれをしたろう。これもしたろう。素直にやったことを悔い改めてしゃべるなら、いいものを・・・・・・・・・・・
人間とはそうした生き物で、よく思われたいと、嘘の報告ばかりをするのです。でもここでは聞くだけで通してもらえるのです。
現在、命のある私たちはどうでしょうか?? 隠していることありませんか。
人の死も色々な形でおそってきますが、とにかく沢山の人の救いが必要不可欠となるのです。
十万億度の世界(説明有り)へいくためには、大変なことです。
初七日忌の守り本尊は不動明王で五戒を教えます。
不動明王は、体からは炎をもやし・鋭い目・手には右に宝剣左に縄、なんでそのような出で立ちで立っているのかを考えなければならない。五戒は殺生戒・偸盗戒・邪淫戒・妄語戒・飲酒戒とがありますが、比丘(男の僧侶)の二五〇戒、比丘尼の三五〇戒と沢山の決まりがある。それを縮めて五戒としたそうです。五戒の解説
逃げる奴・悪い奴は縄で捕まえて、剣でその心に住みついた邪心を切り裂いてしまうのだ。
不動明王はそのものを見ただけで、こころを読みとり、今までどんなことをしていたかを言い当ててしまう能力を持っている。ごまかしは、通用しないのだ。
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二七日忌
臨済宗葬儀法要法話実践講座より引用
二週間もなると弔問客も減って、一段落ですがなにやら心にポッカリと穴が開いたようになります。
二十七日忌を以芳忌(イホウキ) かんばしを以てとなりますが、かんばしとは人の慈愛の心豊かな心を香りとして、人に嗅がせてあげることで、要するに相手に喜んでもらうこと、布施をする(別に説明)ことです。徳を以て人に与えることです。
命を親から頂いて、この上ないはずなのに、色々と他のものが欲しくなる。
この日ばかりは欲を捨てて、本尊様のお釈迦様の教えに帰依しましょう。
お話に「流芳万古」の碑 というのがありますので、短編にてここに記載します。
昔、あるところに今田常蔵という船大工がいましたが、飲みうつ買うの三拍子で、腕はいいもので、収入もよくて稼いだお金は女郎やとか博打につぎ込み、家庭には一銭も入れませんでした。奥さんは内職やら、色々な仕事をして家のため子供のために働いたのです。
ある日、常蔵は女郎屋にいっておいらんを呼びました。奇麗に着飾った衣装は見事なものだが、なにやら寂しいかおをしているので、こんないいものを着て、男と遊んでいいね。言うと、そのおいらんは、こんな唄を歌いました。都々逸調子で 「 ♪衣−装−は−借り−物−、♪身−は親方のもの−−−、♪こころ−ひと−つが−あたしのもの−−−・・・・・・・・・・・♪」 と、それはとても綺麗な声でしたが、影のあるとても寂しい声でした。
常蔵は、その唄を聞いて 俺はなんて馬鹿なことを今までしていたんだと、妻や子供はほっぽらかしで自分の幸せは知らずに人がいいようにばかり思っていた。
常蔵はそのおいらんを女郎屋から引き抜いて里に帰らせ、その後から懸命に仕事に打ち込み、その町一番の信仰者になり、家族を思い先祖を尊び、自分の菩提寺のお寺には鐘突堂を寄進したそうです。その常蔵の死後、彼をたたえる為に住職が流芳万古の碑を建てたのです。
私たちもいい人生だつたといって死にたいし、死んだあとも人々に指さされることのない人生でありたいものです。
二七日忌をまもるはお釈迦様
釈迦は約2,500年前29才で出家、35才で悟り、45年間の説法をし、80才で入滅される。
[ 奇成るかな奇成るかな一切衆生悉く仏性を具有す]
上記の句はおしゃか様が悟られたときの句でありますが、生けとし生ける全てのものは、みんな仏性を具え持っているということで、犬・猫・畜生に到るまで、又 山川の草木に到るまで仏性があると言われました。本当に不思議なことだと。
ある教典に
かくのごとくわたしは聞いた。
ある時、世尊は、ウルヴェーラーのネーランジャラー河のほとり、菩提樹のもとにあって、初めて正覚を成じたもうた。そこで、世尊は、ひとたび結跏趺坐したまま、七日のあいだ、解脱のたのしみをうけつつ座しておられた。そして、七日を過ぎてのち、世尊は、その定座よりたち、夜の後分のころ、つぎのように、順次にまた逆次に、よく縁起の法を思いめぐらした。「これがあれば、これがある。これが生ずれば、これが生ずる。これがなければ、これがない。これが滅すれば、これが滅する。すなわち、無明によって行がある。行によって識がある。識によって名色がある。名色によって六入がある。六入によって触がある、触によって受がある。受によって愛がある。愛によって取がある。取によって有がある。有によって生がある。生によって老死・憂・悲・苦・悩・絶望がある。この苦の集積のおこりは、かくのごとくである。また、あますところなく、無明を滅しつくすことによって行が滅する。行がなくなれば識がなくなる。識がなくなれば名色がなくなる。名色がなくなれば六入がなくなる。六入がなくなれば触がなくなる。触がなくなれば受がなくなる。受がなくなれば愛が無くなる。愛がなくなれば取がなくなる。取がなくなれば有がなくなる。有がなくなれば生がなくなる。生がなくなれば老死・憂・悲・苦・悩・絶望がなくなる。この苦の集積の滅尽は、かくのごとくである」と。
沢山の釈迦説法があり、ここでは紹介出来ませんが、死ぬまでに説いたことが、弟子たちによって書きあらわされたものを経文といいます。
仏教の頂点にあり、現世の仏教をかわりなく永続できているのも、その教えがいかにすばらしいかを物語っている。
色んな宗教が、蔓延する中でひときわ光っているものでしょう。
今ひとつ、お釈迦様の言葉に耳を傾けて頂き、なぜにこんなにすばらしいかを知るべきです。
日本の風土にとけ込んで古来より親しんだ仏教を見直しましょう。
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三七日忌を洒水忌といいます。
浄水のように清らかにある日です。
ありのままの自分を持つというか、清らかな心で一日を過ごしましょう
我々は知らず知らずの内に自分に溺れ、身動きができない状態になっているようです。[井の中の蛙、大海を知らず]のように、色んな世界があることを知り、色んな人がいて、回りがこんなにもすばらしいことを悟らなければならないと思うのです。そう無限であることを知るべきです。
さて、自分から先祖にさかのぼって考えてみましょう。
自分には、父と母がいます。父・母にも父と母がいます。そうすると、1人から2人、2人から4人、4人から8人、8人から32人とどんどんどんどん増えていきます。なんと、自分から20世代まえにさかのぼると、先祖は1,048,576人にもあったのです。その人達から血肉を分けてもらい、知識・能力などの資質を頂いていたのです。これでも先祖に感謝しないのであれば、生きる価値がないのではないでしょうか。その中の一人でも欠けていたら、今の自分は存在しないのです。すごいような、恐いような現実です。
ある人にあなたの先祖は何人いますかと尋ねたら、家には死んだ人がいないから、一人もいません、などと平気で答えていました。
空の星を数えることが出来ないように、先祖も無限に存在していたんですね。
三七日忌をまもるは文殊菩薩
文殊菩薩は智慧の仏様です。普賢菩薩と共にお釈迦様の脇侍として、釈迦如来を支援しておられます。
さて、文殊菩薩の智慧とは一体どんな智慧でしょうか。禅門第一の書といわれる 「碧巌録」 の第三十六に 「文殊前三三」と言う話があります。
この話は五台山におられる文殊菩薩に、無着文喜禅師と言う方がおめにかかって、問答された伝説の話です。
文殊菩薩が無着に、「どこからおいでになりましたか。」 と尋ねます。
「南の方から来ました」 と無着が答える
「南の方の仏法は近頃どんな風ですか?」 と文殊が聞く。
「末法の比丘が少々戒律を守っております。」 と無着が答える
「その数はいくらぐらいですか。」 と文殊が聞く。
「あっちの僧堂に300人、こっちの僧堂に500人位集まっています。」 と無着が答える。
今度は無着が問いました。「こちらの五台山では如何でございましょうか。」
「目の開いた人もおれば開かん人もいる。龍もいれば蛇もいて、ごちゃごちゃしている。」
「どの位おいでですか」
文殊菩薩の答えはふるっており、「前三三後三三」 と答えた。
そこへ小僧さんがお茶を運んで来ました。文字菩薩はガラスの器を取り上げて尋ねました。
「南の方にもこんなものがありますかな?」
無着はまた正直に、「こんな珍しいものはありません。」と答えました。
文殊はすかさず、「それではどうやってお茶を飲むのかね。」とただしました。無着が返事も出来ずに帰ろうとすると、文殊菩薩はこぞうをよんで門のところまでおくらせました。
そこで、無着は小僧さんに尋ねました。
「さきほど和尚様が前三三後三三と言われたが何人位おられるのですか。」
小僧さんはわからず「大和尚様それは何人ですか?」と反対に問われてしまい、又、無着が尋ねていいますに「ここは何という寺ですか?」
小僧さんはふと山門の側に立っている金剛像を指さしました。ところが無着が振り向くと寺も小僧も消えて亡くなり、山の谷間だけだったという、夢の様なはなしであります。後に人がそこを「金剛窟」と名付けたそうです。
無着が文殊菩薩に会った寺を勝伽藍(立派な寺)とうたっておられるが、実はそんな目に映る伽藍ではなく宇宙そのままそっくりが文殊の伽藍だという訳です。このようなこだわりのない心で見ると、満目文殊で山も川も草も木も花も鳥も、目に見える森羅万象すべてが文殊様だというのであります。ところが満目の文殊様にお目にかかりながら、文殊様とも知らず、ただきょろきょろと五台山のみどりの山を見回した無着の至らなさを笑っておられるのです。その上さらには、門送してくれた小僧に「前三三後三三」のことを何人かと尋ねる愚かさを笑止千万だと言うのであります。
禅の立場から「外に向かって工夫を作す。総てに是れ痴頑の漢」 と外にむかって仏を求めていく愚かさを戒めておられます。
即ち内外打成一片、天地と我と一枚に解け合ったところから見ると「前三三後三三」もただの数ではなく、無限の数え切れないほどの数を表したものです。空の星数はいくつですかと言われたようなものです。
四七日忌を阿况忌と言いますが、ここの守り本尊は普賢菩薩です。
智慧の文殊菩薩に対して、実践の普賢菩薩と言われています。
禅の修行は実参実語、とにかくやること、目標に向かって進むことです。とにかく体験・経験をすることが大前提です。
そこで何を実践するかということで、六波羅密を取り上げてみましょう
六波羅蜜
布施 ・ 持戒 ・ 忍辱 ・ 精進 ・ 禅定 ・ 智慧
◎布施波羅密
布施には 法施・財施・無畏施
布施は見返りを求めない心を持ち、相手に喜びを与えなければ布施ではありません。
しかも、自分が喜びを持っていなければならない。嫌々では、なんにもならない。
◆法施◆
生まれてから今までに得た知識・教養・特殊な力・教えなどを、相手に余すことなく与える布施です。
寺の住職・他にも人から先生とよばれているような人が当てはまりますが、給料を貰うようでは布施ではありません。
◆財施◆
物・お金などで相手の不足を埋めてあげ、財物によって喜びを与える。
◆無畏施◆
簡単に言えば、人に教える物もなく、与える物もない、依って自分の体一つで布施をします。
たとえば、ボランティア活動をするとか、色々の奉仕活動・公共の掃除など、やろうと思えば沢山あります。
◎持戒波羅密
戒には、比丘の250戒・比丘尼の350戒といい、ここで書き出すには、膨大なファイルになりますので、これを縮小された五戒を取り上げたいと思います。
五戒
殺生戒 ・ 偸盗戒 ・ 邪淫戒 ・ 妄語戒 ・ 飲酒戒
夫れ人間の身を受けてこの世に生まれくることは爪の上場における土、三悪道に陥るは大地の土の如く也
たいがいのひとは三悪道におちると言われています。99.9999%の人は、すぐに極楽へ行けることはほど遠いと言われています
確率の低い人間に産まれてきてこんなすばらしいことはないのに、この五戒を守らずにいたばかりに次の生まれ変わった自分は人間でなく、ゴキブリかもしれません。人間に追いかけ回られ、スリッパでつぶされる自分を想像してみて下さい。
しかし、生きていくためには五戒を忠実に守っていては何も出来ません。最小限に押さえて、五戒の罪を犯した自分を懺悔して悔い改めるなら、極楽も簡単に行けるかも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さていかに私たちが罪を犯しているか調べてみましょう。本当に極楽へ行けますか??
◆殺生戒◆
ものを殺す事なかれ。単に人を殺す・動物を殺すと言うことは言うまでもなく、この世にある全てのものに対して、無駄なことおよび破壊などもこれに入るのです。
普通に顔を洗っていて水を流し放しにしていませんか。これも殺生です。
何気ない生活の中で我々は沢山の殺生を知らず知らずにしていたのです。朝・昼・晩の食事もしかり、何を食べても元は生きていた物ばかりで、コメも白菜も人参も大根も、もちろん 肉・魚もそうです。我々は物の命を取らないと自分の命は守れないのです。他の命を奪って生きているのです。そうしないと生きていけません。
この戒は守られていないのがよくわかったと思います。
◆偸盗戒◆
ものを盗んではならない。ただそれだけではなく、いかなるものも盗んではならない。
我々は生まれて死ぬ間までに色んな事を知っている、覚えている なぜか考えたことがあるだろうか。
赤ちゃんの頃何も教えなくとも立ち上がり教えなくても乳を飲む。この行動は仏性であり、普通に言ったら本能でありますが、日本人は日本語、アメリカ人は英語とどうしてしゃべれるようになるのでしょう。それは、親のまねをし、兄弟のまねをし、周りの人の言葉を覚えるからです。当たり前の事ですが、これも立派な偸盗です。
生活全般衣食住我々は盗みをおこなっているのです。知らない内に。そして、心をも盗んで笑ってみたり、泣いてみたり、怒ってみたりと、人の心をも盗んでいます。人間は大泥棒です。
◆邪淫戒◆
淫らなことをしてはいけない。夫婦になって他の人と姦淫してはならない。
こんなことは当たり前ですが、テレビに素敵な人が出てくると、胸が高鳴りこんな人と一緒になれば良かったと思い、息子に嫁が来たら、この女に息子をやるものかと、井戸端会議では、あちらの悪口、こちらの悪口 沢山に我々は邪淫しているのです。とにかく、体だけでなく心で思っても邪淫したのと同じなのです。
◆妄語戒◆
嘘を言ってはならない。騙してはならない。物語を偽ってはならない。
自分親が六十くらいとして、体の調子が悪くて入院し、先生の言うことには、この人はあと一月でです。と言われて、そのままにその人に告げる人は、よっぽどの理由がない限り鬼の様な人と思います。おおかた、もうすぐ直るそうだから頑張って辛抱してね!!
と、嘘をつくはずです。子供が言うことを聞かないとき、お化けが出るよとか、今度何か買ってあげるとか買いもしないのに、その場凌ぎの嘘をつく。そういうくらいに、どうしようもなく嘘ついたりするはずです。
◆飲酒戒◆
酒を飲んではいけない。
この戒は、物を口に入れて精神を乱してはならない。と言うことで、酒を飲んで酔っぱらったり、麻薬・シンナーなどの毒物を飲み、自分を失ってしまったりと色々ありますが、これだけではないのです。風邪をひいたとすると、お医者さんに行くと思いますが、その時注射を打ってもらったり、薬を頂いたりとして薬でもって体の悪いところをごまかしているのです。
上記の五戒でもわかるように、知らない内に罪を犯している。しかし、人間である以上仕方ないと言えば仕方ないのです。そうしないと、我々は生きていかれないのです。
大事なことは、夫れをいかに大事に感じとって懺悔し反省するかでしょう。罪の意識を感じない人は、地獄へまっさかさまでしょう。なむあみだぶ・なむあみだぶ・なむあみだぶ・南無阿弥陀仏
五七日忌を小練忌と言いますが、練は練り返しで復習の意味で、今一度初七日忌からおさらいして試みましょう。
五七日忌の守り本尊は地蔵菩薩、字の如くに地の蔵と書きますが、大地のことで大地は生み・育み・守るの象徴也
我々は、大地によって守られていますが、大地そのものが地蔵様なのです。
賽の河原で、幼くして死んでいった亡者は三途の川を渡られずに、岸辺で子供の亡者は祈願を発てるのです。
賽の河原の小石を集めてひとつひとつ拾ってきては、一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、三つ積んでは・・・・・と言った具合に一〇八個の小石を積み上げると成仏すると言われていて、一生懸命に小石を積み上げます。しかしちょっと積んでは、かわらにいる鬼に小石を崩されて元の形になり、何度も何度挑戦してなかなか成仏出来ずにいます。
そんなとき、地蔵様が現れて自分の衣の中に包み込んで鬼から子供の亡者を守ってくださるのです。中には踏み殺されて地獄に落とされてしまう子もいます。地蔵様は、その子が生前にどんなことをしていたか知っていますし、親がまたどうしているかも御存じなのです。なぜなら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・地蔵様は閻魔大王の化身だからです。
季節の植物の如く大地より芽を出し根を出し生まれ出て、大地の栄養にて育ち大きくなり、雨が降っても風が吹いても大地にしっかり根付いて大地から守られる。我々の親もこの役割によく似ていると思う。
親は、子供を先に亡くすと嘆き苦しむそして地蔵様に御願いして、守って貰うのだ。良く目にすることが路傍のお地蔵様によだれかけを掛けたり毛糸の帽子をかぶせたりと色々子供の代わりに地蔵様に奉仕をします。
しかしその風景も昔のお話のように近頃はそんなことしないようになっていってるようです。信仰の価値観と言うか段々信仰が薄れていっているようです。なにやら寂しい気がしてなりません。
地蔵様はもう一つ大事なものを持っています。夫れは不浄を浄化する働きを持っていることです。残飯の野菜などを穴を掘って入れ土をかけて1ヶ月もしたら穴を開けると入れたはずの野菜が消えてしまうのです。そうです、浄化作用によって土に還元されてしまったのです。
お地蔵様に身を任せて五七日は供養をして下さい。
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六七日忌の本尊様は弥勒菩薩そして、檀弘忌と言いますが、檀は檀家の檀ですが、布施をひろめると言うことで、布施をすることです。
布施をサンスクリットでダ−ナといいますが、ダーナとは食べさせてくれる相手を言います。良く、うちの旦那様なんか言いますが、まさしくその通りで食べさせてくれる人とこ人で、男であろうと、女であろうと、関係なく食べさせてくれる人です。要するに、ダーナとは布施のことをいいます。
さて、弥勒菩薩のことに移りましょう。お釈迦様が入滅される時、言い残した言葉に56億7千万年尽きたときどこからともなく弥勒菩薩が現れて世の人々を救うであろうと言われた。
右足を左の股の上にのせ、右手を頬に当てて左手は右足のすねの上において、眼は軽く閉じている。そして、かすかにほほえんでいる。いつも何かを考えている様子であるが何を考えているのだろう。そう・・・・・・・・・・・・・・・・・・どしたら衆生を救うことが出来るのであろうか・・・・・と。衆生とは、生けとし生ける総ての者です。山川草木も入ります。
案ずることはないのです。我々には、弥勒菩薩が側にいます。私はひとりぼっちなどと言うひとがいますけど、見守られていることを早く自覚する事でしょう。長い間の時間を思惟する事だけに費やした弥勒菩薩は明るい未来を約束されるでしょう。
七七日忌大練忌で四九日最後の審判です。今一度初七日忌から練り直してみましょう。
この時の本尊様は薬師如来様ですが、お寺では毎月八日夕方に薬師諷経といって薬師様のおつとめをします。こうやって健康に居られるは、薬師様のお陰ですというわけですが、薬師様は應病与薬について説かれています。読んで字の如くに病に応じて薬を与えてくださっているのです。しかし、病院の薬とは違うのです。それならお医者さんに貰えばよろしい。
良く聞くと思いますが、私はどうしてこんな悪い星のしたに生まれたのかしら!!
っと、良く口癖のように言う人がいますが、それは違います。悪いことというのは大部分が自分が作り出すのが多いのです。それを人のせいにしたり、環境のせいにしたりと自分のことは棚に上げている人が随分多いようです。
因縁果とぃつて原因があり、それに縁が生じて、結果をもたらすのです。この規則は完璧です。そこで、薬師如来様がおいでになって色々な事件・事故を作ります。そうですあなたのためにわざわざ作ってくれた出来事です。悪循環にならない内にそれに気がつけば大きくなることもないのに気がつかないものでどんどん大きくなって取り返しのつかない決幕になってしまうのです。
なぜ、薬師様から助言が来たと思い、気をつけて生きられないのか。こうすればこうなるんだと早く気がつかないのだろうか。
悪いことに出くわしたなら、これで又一つ大きくなれる、そう思いましょう。
地獄の中に阿鼻地獄と言うのがあるそうですが、いつもいつも泣き叫ぶ聞こえるそうでそこの地獄の深さは448,000,000メートルの底にあるという。人一人が亡くなってしまうのは、遺族にとって地獄に堕ちたるような心持ちとなるでしょう。
百ヶ日は卒哭忌といい、泣き納めの日です。
いつまでもメソメソしていても仕方ないのです。置かれた状況、亡くなった人がいないという環境に一刻も早く慣れることこそ亡くなった人に安心して向こうの世界に行ってもらえるのだから。
こっちの世界では、迷ってしまい人間にも慣れない、精霊にもなれずただ彷徨う霊や餓鬼となるだけです。
百ヶ日の本尊様は観音菩薩です。三十三(ただの数ではなく無限の意)の色々な姿に変身して我々を見守っています。
観音様は七難三毒を消滅させる力があるのです。右往左往していても仕方がない、観音様に任せましょう。
観音様に行導観世音菩薩という観音様がいますが、元来数珠は人間が仏を拝むときに使用するのですが、この観音様はご自分が数珠を掛けられているそうです。
儒教者がそれを見て、この仏はおかしな事をしているではないか、守るはずの仏かどうして数珠など掛けているのか??
それを聞いた仏教者は、それは違うと 仏が仏を念ずるのではなく、己が己に念じているのだ。それを教えているだけだ。色んな新興宗教がはびこるこの世にの中なんに頼ってもダメで結局頼りになるのは自分だけだよと。
自分が自分に願をかけ懸命に努力しなければ何にもならないことを、行導観世音菩薩は教えているのだ。
要するにしっかりせんか!!!!と言っているのだ。
一周忌は小祥忌と言いますが、吉祥が小さいと言うことで、1年間は喪中で亡くなった人だけのことを考えて、とてもお祝い事にも出れない状態で、何とか1年を経過して小さい祝い事には参加出来るようになる、もしくは参加してもよくなったと言うことです。又、極楽も少しは近くなって喜ばしいということであると、何かにかかれていました。
一周忌の本尊様は勢至菩薩で、開運吉祥の仏様です。左手で蓮が今から開きかかりそうな状態でさらには、右手で早く開けと言っているかのような格好です。一年もすると悲しみも少し薄れてきて、いつまでも悲しんでばかり入られない。さあ頑張るぞという気持ちで心を開く時期なのです。
勢至菩薩は観音様によく似た姿をされ、違うのは蓮の花の開き具合と、手の格好です。観音様は右手の平を向こうに見せて指が下を向いていて、さあ私の元へおいでなさいと誘っていて、蓮の花は開いています。さあこの花を見て楽しい気持ちで私についてきて、と言わんばかりです。勢至菩薩はあなたのこころを開いて、実地を踏んで頑張りなさい。今からですよ。と言っているようです。まさしくそのとおりで亡くなった人がいない環境に一年もしたら慣れて貰わないといけないのです。
三回忌を大祥忌と言いますが、大きい吉祥で人の大きい出来事にも参加してもいいと言うことです。まだまた、故人に対して思いも残るでしょうが、そろそろ故人のいないという環境に慣れないと、自分の生活自体も狂ってきて、他の人に迷惑をかけることになる。これではなくなった方に申し訳なく、供養どころか迷わせてしまうことにもなる。
本尊は、阿弥陀如来様で此岸の釈迦・彼岸の阿弥陀と言うくらい、あちらの世界の仏様です。アミタは梵語で無量・無限の意味があり無限なる広大な十方世界を照らすのです。仏と自分が一体となってただ、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・とにかくも一心に唱えることで己の信念岩をも通すです。
7年にもなると、いないということが当たり前となり、自分の生活にも力が入って頑張らなければと思う気持ちがついていると思われます。
七回忌の本尊様は阿しゅく如来です。
阿しゅくは過去において大日如来のもとで発心してその心が何者にも動かされず、絶対に動かされないと言う無瞋恚の願を発し、その修行によって東方世界で成仏され阿しゅく仏となり説法をされているのです。
その姿は、左手で衣の裾をつまみ、右手で膝の上に置き、指先を大地に触れています。自分の衣を握っているのは、その決意の強さを表し、右手で大地を触れているのは、大地の無尽蔵の生命力をもって発心を揺るぎなきものにしようとしているのです。
よーーーしと発心する事です。
十三回忌は称名忌 本尊は大日如来
大日如来は別名 毘盧遮那佛 全ての仏の特徴をもっていて、仏の中の仏である
清淨法心 光明返照 如何なるところでも あまねく行き渡る
我々は大日如来から太陽の光を頂き、月の光を頂き大自然の色々なるものを頂いて生きていることを忘れてはならないのです。他人だけがいい思いをしているように思っている人が多いようだが平等に自然の恵みを頂いていることを十三回忌に知って欲しいと思うのです。
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ここの本尊を虚空蔵菩薩
虚空はなにものも破壊することが出来ずして、どんなものでも無数に受け入れ貯蔵することが出来、必要であればいつでも自由に出し入れが出来ます。この仏様は、あらゆる福徳を無尽に包蔵して、大慈大悲の平等の心より悩み苦しむものに虚空の如き大きな深い仏様の宝庫を開いて福徳智慧の珍宝を施与されるのです。
人が亡くなって、いろいろな想い出があると思いますが、いやな想い出は忘れてしまおうなどと思わず、むしろ思いを新たなものにして、それをしっかり受け止めて、生きていくことが肝要だと思います。
法事は誰を呼んだらいいのかわからない人がいるようです。
亡くなった者が主役ですので、亡者を中心に最低二等親を呼んでください。要するに、その人の両親・両親の兄弟夫婦・その人の祖父母・その人の兄弟夫婦・甥姪・子供・孫 沢山になる人もいれば、少人数の人もいます。なるだけ多い方がいいのですが、遠方・場所などを考えて呼ばれた方がいいようですね。呼んだ以上は、しっかりと接待をしなくちゃいけません。法事に呼ばれて良かったと皆さんが言って帰られるほどにくようしなければなりません。
ややもすると、法事の主催者(施主)が、お客様のようにしている人がいますが、おかしな話です。
施主の席は末席となります。結婚式と同じ理屈ですが、亡くなった人の代わりにお坊さんが上座に座って親戚の主要人物より上座から座っていきます。施主は下座の方から挨拶をして、自分が食べるのは後回しにして、給仕に回ります。とにかく、酒をつぎ食事をたらふく食べさせ帰らせてください。
しかも、来られた人は、今日一日はその人の供養の為だけにあるのですから、仕事に抜けたり又、来る途中帰る途中に事故のないように心がけたいものです。帰りに事故でもあったら、今日の法事にけちを付けたのと同じ意味になるわけですから、参加する人も又気をつけたいものです。
坊さんには特に気を使い、来たときお茶一服、おつとめが終わって又一服とだし、座布団を忘れないようにして下さい。
親戚とそこの家の者だけが、座布団を敷いて坊さんは知らん顔と言うところも有り、そこの家の気遣いが足らないことを物語っています。
元来、座布団はお客様のためにある者で、家の人は遠慮するものです。日本の古来の文化が徐々に損なわれています。
日本文化は私たちで、子孫に伝えていきましょう。東洋かぶれしないようにして下さい。
いいものは東洋から取り入れてもいいでしょうが、日本文化を忘れないようにしましょう。
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十万億土とは一体何??
衆生済度と言う言葉がありますが、生けとし生けるものを一回救って再度、それを十万億回救うことです。その人が一生かかってもなしえることは不可能です。二人でも三人でも不可能です。故に、沢山の人から手伝ってもらわなければならないのです。
救うと言っても色々な方法があるかと思いますが、隣の子供でも我が子のように思い、困っている人を見つけたら助けてあげる。
他にも沢山ありますが、先ずは身近なこの法事に来た人を助けることです。いい思いをさせてあげることも済度の一種です。
最初の法事です。懈怠の念を起こさないよう心掛けましょう。
いよいよ冥土に行く旅が始まりますが、その前に彼岸の世界に行く前に仕切りに三途の川があります。
先ずは亡者は 賽の河原に行くことになります。賽の河原で待ち受けているものは、奪衣婆鬼というもので、亡者の着ているものを剥ぎ取ってしまうのです。しかしそれには理由があるのです。
奪衣婆は亡者の着物を取り側には計量の木なるものがあり、そこの枝にひょいとかけ、亡者が生前の罪を計るというのです。是は拒むことは出来ないのです。枝が沢山しなれば罪が多いということであるし、少なければ罪も少なかったということになります。その度合いで 三つの川の渡り方を示されます。
☆一番いいのは、橋でゆっくりと渡っていく。しかし、歩けない人は、船に回される。
☆次は船で渡っていく。この方法が一番楽で早くわたれる。
☆三つ目は泳いで渡っていく。ほとんどの亡者が地獄行き。
泳いで渡る人は大変です。歳を老いている人、体か不自由なること、体力のない人など、決して渡ることが出来ず、川に流されて地獄へまっさかさまに堕ちていきます、十王の元へ行くこともなく地獄に堕ちます。
運良く船で行けるようになっても、渡しの鬼がいて、川の中程に来ると、船を止めて渡し銭をせがまれます。是が三途の川の渡し銭なのです。遺族のものがこの時に棺桶に渡し銭を入れ損なうと、ここで川の中に落とされてしまうのです。
私が小さい頃、葬式に出ると確かに小さな袋にお金を入れて棺の中に入れていました。昔は三途の川の渡し銭は六文銭だったと言います。
しかし、悲観する事もないのです。神社・寺の関係のところへ行くと、お賽銭箱がありますがあの中にお金を入れると渡しの鬼の懐に入るのである。渡しの鬼は間違うことなく、誰がいくらと認識するそうです。
要するに、積み立て三途の川の渡し銭と言うことになる。しっかりと、生きているうちに一円でも百円でも数多く入れておくことです。場所はどこでも構いません。
又、とってもいい生き方をして橋を使ってもいいと言われながらも、鬼は船で渡るように誘ってくるのです。
本当は、船で行く方が楽でわたれるのですが、渡し銭がないとダメですから地獄行きになるのです。
さあ、あなたは三つのどのみちを通らせられるのでしょうか。生き方一つです。
秦広王
死者の行跡について観察する
初江王
死者が、自分にまつわる業、自業自得を知らされる
宋帝王
死者が生前におこなった邪淫について調べられる
王の側には猫と蛇が邪淫の象徴の如くいて、ここから地獄に堕ちる者は始終獣になめ回され噛み殺され、又復活して何度も何度も繰り返す。
五官王
天秤を使って罪の重みを計られる
閻魔王
閻魔王は、もともとの出生はヒンズー教で、元来は死後の世界を取り仕切る大王であった。
インドの古代神話によると、閻魔は人間として最初に死んだ人で、言うなれば死後の世界の第一発見者だったが、彼が新での地俗界から次々と死者がやってくるようになり、やがて死後の世界の権力者にのし上がり死者の罪を裁いては各人のあの世の行き先を決定する迄になったのだ。
又、浄玻璃の鏡に生前の行いが映し出される地蔵様は閻魔大王の化身だからです。あの恐い閻魔様そのものがあの優しい地蔵様で同一人物です。閻魔様は、普段は地蔵様の姿で路傍に立ってじっと我々を見つめているのです。そう、今で言うならテレビのモニターに写しているように、地蔵様が見たものは、閻魔様の浄玻璃の鏡に映し出され記憶されます。子供が正直で、優しい子なら精一杯守ってくださいますし、又 もし生きている親の心がその子供にどうしても成仏して欲しいと願い、衆生済度を行っているならなおさらのことで、極楽の道もそう遠くにはないはずです。
変成王
五官王と閻魔王の秤りと鏡とをつき合わされ泰山王の元へ突き出される
泰山王
中有の最高裁判官で今までのデーターを元に判決を下す。ここでたいがいの人は三悪道に落とされる。落とされないものは
再度審議があり、平等王・都市王・最終的には五道転輪王まで行く。ここでは必ず六道の世界行くところが決まる。
平等王(百ヶ日忌)
四九日までに審判が下らない者は、ここで平等に裁かれ判決が下される。ここでもだめなときは又、先へと行く。
都市王(一周忌)
この辺に来ると、地獄の鬼達とも顔見知りになり、怖さがなくなってくるといいます。
五道転輪王(三回忌)
ここでは最後の審判が下されます。ここまで来ると、地獄にいく人はいませんが、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼のどこかの世界に送られるのです。