昔、お釈迦様の弟子に目蓮尊者と言う頭脳明晰神通力者が居られました。目蓮さんは、ある日自分の母は自分にとってすばらしい母であった。今、六道の世界のどこにいるだろうか。母のことだきっと天国に居るに違いないと目を閉じて神通力の力で天上界を覗きました。ところが、どこを探しても母の姿はない。もしかしたら又、人間として生まれ変わっているのかもしれないとこの人間の世界を見るがいない。修羅界・畜生界にもいない、まさか餓鬼道にいるのではと、のぞき込むと、なんと母は、ここに居るではないか。母に呼びかけるがただ、牙をむいて唸るだけで完全に餓鬼となっていた。目蓮さんは涙を流しながら、「なぜあんなすばらしい母だったのに餓鬼道なんかに落ちなければならないのだ」と、怒りと悲しみがこみ上げてきました。すぐ、お釈迦様のところに行って、どうしてかを問いました。お釈迦様はおしゃいました。「目蓮よおまえの母はどのような人だったのか」と、目蓮さんは「母は立派な人で私をここまでに育て上げ私のためなら、何事も厭わないそんな母でした」。「そう、そんな母だったからこそ餓鬼道に墜ちたのだな」と、目蓮さんにはわからなかった。おまえの為ならなんでもする母であったのだ。「そう、他の人には目もくれず我が子だけがよければそれでいいと言う気持ちが、餓鬼道に墜ちることになったわけだよ」と、そんな目蓮尊者の母でも餓鬼道に墜ちている。我々の先祖はどうであろうか。
 「どうすれば、救い出すことができますか。」と、尋ねるとお釈迦様は「七月十五日に修行を終えて(雲水修行僧)が降りてくる、大人数の供養者がその僧侶たちに沢山の御馳走を呈し餓鬼佛達に海の幸・山の幸を沢山お供えし、そして僧侶に楞厳呪と言うお経を挙げてもらうのです。そうすれば餓鬼佛はその供養によって昇天し成仏するであろう。しかしその時、自分の先祖のみ助けようと思ってはならない全部成仏するわけではないし、自分の先祖だけと思っていたら結局おまえの母といっしょの考えになる。」 
この話から盆の施餓鬼が始まったのです。そして、供養の品を囲んで僧侶がくるくる回ってお経を挙げたのが、今の盆踊りになったと聞きます。