ある日のお通夜の お話し(いつか忘れたけど、前に話した 内容です)

お通夜のこの悲しみの中で、話す言葉も ありませんが 住職という立場にある以上 仏の教えを話さないとなりません。心を鬼と化し 話すことに致します。

瞑目して亡き故人を偲ぶ時は、在りし日の面影が 物静かな 人柄そのもののあの微笑みの顔が 眼の裏に映ります。奥さんや子供さん達らそして遺族の方々、また 弔問の皆様方の心にも亡き故人居られる事でしょう。
昨年、とても 元気で 今夜のような悲しい別れの涙を 流さなければならないとは、思ってもいなかったことですが、まさに 生者必滅会者定離であります。
生あるものには必ず死が 訪れ 逢うものには 必ず 別れが来る。 これはどうにもならない 人の世の定めなのです。つらくとも悲しもうとも うけがうより仕方ないものなのです。
死の別離の涙は無意識の中に流れ落ちる真珠のような涙であります。
”亡き人の我と別ならず”の一つの生命の骨因故に涙のない 心 涙 自失の極に立たされます。
泣いて泣いてしたたる涙が枯れたとき、情けの心から覚めた智慧をもって 厳粛に亡き故人と対座して心の眼をもって死の現実をみつめて欲しいのです。心の耳で声なき声を聞き取って欲しいのです。
道歌に・・・「父母の供養をすると思うなよ 我らが父母か 父母の我らか」と 示されているように 親子というが 親は親であり 子は子であり個々別々の人格でありますが 命の世界から親子を見れば 親とは 子の前世であり 先祖代々 佛承の一つで いのちの現れであります。親子は別ならむであります。
親の声なき声を聞くというのも それは 自分が子に願っている自らの心で、その声こそが 親の声なき声ではないでしょうか。