葬  式

 最初の言い訳・・・・・・・・ここの文章は安国寺での檀家でのお話しです。

 よその寺と比較したりしないように、そして地方性・宗教性などで多少違うことを、認識して読んでください。

枕経 お通夜 葬儀 四九日忌

































普通、人が死んでしまうと、お寺そして葬儀屋さんが来て葬儀の打ち合わせ

お寺さんは、枕経を読みます。その名の通り枕元でお経を読むのですが、なぜ読むのかはっきりと言えるお坊さんは少ないように思います。

枕元に経机をおいて、線香・ろうそく・水・お花(近くにある庭木でよい)・一膳飯に箸を一本立てる。

日本では昔仏教以外の宗教を弾圧した時代があり、その人が亡くなると先ず、その地の役所的働きのあったお寺の住職が、その人が本当に仏教徒であったかを確認していたと聞きます。

別の話では、まだ息のあるうちにいってその人を僧侶が極楽に送ってやるからなと、約束して安心させ迷わないように、死なせてあげ亡くなって経を読んだと

また別の話では、末期の水を飲ませるのは、聖人である僧侶で、木の葉 (しきみ、と言う木) を鳥の羽に見立てて、聖なる水を飲ませ体の汚れを落として空高く天に昇って天国に行けるようにしたと・・・

色々あるがどれが本当か本当のところ私もわからない。

しかし、全てが理にかなっているようにも思える。

一膳飯にいっぽんの箸をさして置くのは、尋常ではないと言うことで、一本ではご飯は食べられない、つまりあなたの食べるご飯はここには無いんだよ、と 亡くなった人にさとしてやっているのだ。

亡くなったひとを亡者といいますが、亡者は自分の体から幽体離脱して離れると、生まれて死ぬまでの間いろんなところへ行った場所や、今までに会ったいろんな人に会いに出かけるということです。よくよく話に聞くのが、寝ていると、枕元に自分の知っている人が出てきて、じっと立って見ていたとか、夢にうなされてその人の夢ばかり見たとか、次の日になると朝一番で訃報の知らせがあったなどと、この世にはまだまだわからないことが沢山あるようです。

その晩供養のおつとめをなして、葬儀の式次第日取りなどを決め葬儀前日を本通夜にします。その前にするのは仮通夜です。


初めに戻る























葬儀の前日に行われるのが通夜という。文字通り故人を偲んで夜を徹して葬儀に望むのである。
亡者は自分の体から離脱して産まれて死ぬまでの間に行ったことのある土地や写真で知った場所など一瞬の内に移動してその様子を見て回る、そして今までに会ったことのある人、生きてるときに印象深った人、人から聞いて知っている人に会いに行くと言われている。しかし、相手によっては見えるときと、見えないときがあるようで、気づかない方が多いとか・・・・・・・・・・。

 通夜の晩は亡者は行った先から戻ってきて、弔問に来られた人の棺の近くで干渉している。
そして、自分が本当に死んでいることを悟るのだ。

  この時期は死有(しう)という

☆生有・・・・・・・・・・生みの母親の胎内に宿ろうとする瞬間の心身
☆本有・・・・・・・・・・母親の胎内から宿ってからこの世に産まれて死ぬまで間この目で見ることの出来る間の心身
☆死有・・・・・・・・・・この身が死んで次の中有に移ろうとする瞬間の心身
☆中有・・・・・・・・・・この身が死んで生有に移ろうとする瞬間の心身

 この時期は人間でもなく、黄泉の世界の者でもない、浮いた状態でフワフワと彷徨っているのだ。
一刻も早く、あちらの世界に送らないと、浮遊霊となって彷徨うこととなる。浮遊霊はいつしか餓鬼・邪鬼となってこの世にたむろして、色々な現象を引き起こすと言われている。

そのために次には葬儀をして、故人の遺徳を忍んで聖職者たる僧侶が引導を渡して、向こうの世界へ追いやってしまうのだ。人によっては、幽霊でも良いからそばにいて欲しいと言う人がいるけれど、向こうの世界に行き損なった霊は餓鬼などに変化して、心も姿も餓鬼となってしまい。そばにいたら大変なこととなるでしょう。生き血をすすり、取り憑かれた者迄も生きたままの餓鬼となってしまう。

どうせなら向こうに渡って、仏の姿になって、再会したいものです。


初めに戻る


























葬儀の仕方は宗派・または寺院によって違いがありますので御了承のほど。

近頃は出棺を先にすることもあります。
その時の状況で色々と違うと思うので一概には言えませんが、安国寺の葬儀を紹介しましょう。

☆先ずは故人剃髪を行います。これは、仏教徒であるということで、お釈迦様の佛弟子に成るために、頭を剃って得度をします。いまの時代は形式だけで本当に剃ることはしませんが、昔は剃っていたそうです。

☆次に、授戒といって戒名(法名)を頂く儀式をします。

授戒を受けないと葬儀は出来ません。
葬式はせずに戒名だけ下さい。なんて虫のいいことを言う人もいますが、働かずに給料を下さいといっているようなもので価値観が見受けられません。

生きていた証が必要です。

次に引導ですが、
偈頌・八字称・重隔句・短句・軽隔句・短句・到裡這・重隔句・散文・落句
といった日本独特の漢文を作って、引導にします。
近頃随分なれて、一時間もあれば出来ますが、住職したてのころは、五時間もかかって作っていました。
とても長い文章で出来ているのです。
しかも、一人一人違っています。人生が違うように、違っていなけりゃおかしいです。

引導の前にたいまつにて、一円相を描いて棺桶に火をつけます。
人に火をつけるのは、人間として大変なことです。いくら死んだ人とはいへ、これは聖職者たる僧侶がしなくちゃ誰も出来なかったことです。

最後に喝の一声をあげますが、びっくりさせようとしている訳じゃありません。
だれかが、寝ている人を大きな声で起こしているんだよ、などととても次元の低いことを言っている人がいますが、喝は喉が乾くと渇を書きますが、口辺の喝は、もうおまえに何一つ言うことはないと、いうことでさっさと彼岸の国に渡りなさいと厳しくつっぱねてさとしているのです。
 

あとは焼香して出棺をするのです。

簡単にまとめてみましたが、一時間はかかるみたいですね。


初めに戻る


























本来授戒は生きている時に頂くのがならいですが、もらっていない人が結構いるようです。
仏の教えに従っていきていけば決して間違うことのない人生なのに、みんなあくせくとたくさん苦しみを背負って死んでいく人が大半です。

法名は仏に成ったという証です。
法名には色々の付け方がありますが、あんまりこだわらないほうが良いみたいです。

院号・軒号・庵号・堂号・・・・・・・・・・号が付くのは金銭的に布施をした人に多く、院殿号などは昔殿様しか付けてはならないものでした。なぜなら、そのお寺をその人が建てた訳だから当たり前といえば当たり前、もしいまの時代でお寺を建てて寄進したならきっと院殿号が付くでしょう。しかし、半端な金額では建てられません。5億円以上の寄付が必要です。院号などはそこまでいかないけどそれなりの寄進に依るものと思います。

法号・・・・・ここからの4文字がいわゆる法名というところです。その人の人生を引導の詩につづってその中から抜き出して4文字を作ります、尚その4文字にも意味がないといけないわけです。簡単に作っているわけではないことを記しておきます。

位号・・・・・・・・大事なのはここですが、信士・居士・大姉などあります。
昔、位号は一般の人にはつけなかったと聞いています。
今では誰でも付けています。今と昔では全然違いますから当然と言えば当然ですが、ここは社会的存在・地位・社会的貢献・または金銭ではなく体全身で布施をした人に色々とあった位号を付けていきます。法名を差別と言う人がいますが、これは区別と理解してください。意地悪をしたり悪口を言ったり人から嫌われる様な人に良き位号は付かないのです。

法名は色々考えず、住職に付けてもらったものが良き法名です。法名に悪い法名はありません。悪しからず御理解の程。


初めに戻る